2016.12.15 「天才と秀才」
スポーツの楽しさをお伝えするATHLEADブログ。
こんにちは、シェフの阿川です。
先日、久しぶりに「アマデウス」という古い映画を観ました。
当時は高校生で、アカデミー賞を総なめにした映画として観ていて、深く考えずにただ面白いかどうかだけで判断して、上っ面しか観ていませんでした。
当然、コマーシャルベースに乗せることが大前提である事は間違いないのです。
黒澤明の言葉でも、「客が入らなくなったらボクは映画を作らない」と言ってましたので!
この映画「アマデウス」、モーツァルトのラテン語のセカンドネームで、意味は”神が愛した者”となります。
彼が10歳前後の頃、父親が付けたらしい。
神が愛した者、つまり天才と言うセカンドネームを!
映画では人間を3種に分けて描いています。
天才、秀才、凡才!
映画では、モーツァルト、サリエリ、オーストリア皇帝!
天才・・・神が愛した者。
秀才・・・神が愛する程の才能には恵まれてないが、天才の才能は分かってしまう。
凡才・・・秀才の才能は理解でき、尊重するが天才の才能までは分からない人。
「アマデウス」は天才の才能には恵まれなかったが、その才能を分かってしまう秀才の悲劇です。
この映画のモーツァルトは下品でハレンチ!
なぜこんな男を神は愛したのかと、サリエリが神を呪いたくなるような男に描かれています。
モーツァルトの出身地、ザルツブルクでは上映禁止にしたそうです。
この事も、製作者の意図を理解できない凡人の極みかと。
モーツァルトは凡人の皇帝に言う、「私は下品かもしれません。でも私の作品は下品でない事は保証します。」
創作する者の自負心を表す、天才に共通する言葉かと。
若き日のミケランジェロも無名だった頃に依頼者に超一流の報酬を請求しています。
渋る依頼者に、この当時無名の天才は言い放ちます、「特をするのは貴方です。」
この映画のモーツァルトは、下品でハレンチでも鷹揚です。
自分に対して燃やすサリエリの敵愾心に気付かないくらいに、サリエリに対しても鷹揚です。
そして、天才は常に自負心と恐れと背中合わせにも持っているようです。
理解、賞賛が創作者には絶対に必要なのもこれが理由なのかと。
映画の中でも、病気が進んで余生も残り少なくなったモーツァルトが、病床に伏しながら「レクイエム」をサリエリに口述作曲する場面があります。
サリエリには、その作品を自分のモノとして発表しようとする下心があるのに、彼とて天才の能「レクイエム」の素晴らしさを理解し、思わす感嘆の想いを口にしないではいられない。
そのサリエリに対し、顔は死人のようになっていながらモーツァルトは微笑をたたえて言います。
「ありがとう、貴方は親切な人です。」
あの瞬間、モーツァルトは他の誰よりもサリエリを愛したでしょう。
目の前にいるサリエリから褒められて、彼は嬉しかったのです。
天才にこそ、理解や賞賛は酸素のようなものなのだと思います。
凡才の我々の中でも、褒められて伸びるタイプとそうでない人と括ることがありますね。
僕自身凡才ですが、お客様に美味しいと言ってもらったり、笑顔になってもらうことを欲しています。
天才、凡才問わずに、褒められ共感してもらう事がプラスに作用するのでしょう。
ゲーテの言葉で「天才とは努力する事をしっている人のことである」という言葉があります。
何事においても地道にコツコツ努力するしかないのでしょう。
今夜も、お客様の御来店を待ちながら黙々と準備を進めてます。