2016.09.22 「再びルネサンス」
スポーツの楽しさをお伝えするATHLEADブログ。
こんにちは、シェフの阿川です。
読書好きの僕にとって、なくてはならない出版業!
今回は、その発展を飛躍的に伸ばしたルネサンス人を紹介したいと思います。
アルド・マヌァツィオ!
彼の名を知っている方は殆どいないでしょう。
グーテンベルクが活版印刷を発明したのが1450年前後のことで、アルド・マヌァツィオは1449年、南イタリアの小さな村に生まれました。
ローマやフェラーラでラテン語、ギリシア語を学んだ後、41歳の時に出版業を始めようとヴェネチィアへ出てきました。
なぜヴェネツィアを選んだのか!
彼は情熱だけに駆られただけでなく冷静な分析力も兼ね備えていたことを示しています。
ヴェネツィアには既に土台がありました。
グーテンベルクの発明から20年後、ヴェネツィアの2人の版型職人によって、最初の書物が出版されています。
利点の第2は、ヴェネツィアでは、言論の自由が保証されていたことでした。
当時の言論の自由とは、キリスト教会による干渉や弾圧から自由でいられること。
ヴェネツィア政府には法王庁の圧力に屈しない伝統があり、他国では厳禁とされていたルターやマキャベリの書物も普通に売られていました。
第3は、ヴェネツィアでは優秀な職人をあつめるのが容易でした。
国内の安定と繁栄が、他国からの職人の移住の原因でした。
それに政府も彼ら職人の権利を守るのに熱心でした。
4番目の利点は、販路の広さにあります。
在庫が増えるのは、500年前でも困るのには変わりはないです。
ヴェネツィアは国内の読者層だけでなく、商路を利用して国外に売りさばけるという利点では、他を圧倒していました。
そんな交易の国だから、古典の出版で赤字を出しても、海図の印刷という絶対確実な滑り止めさえありました。
ポルトガルの航海王ヘンリーもわざわざヴェネツィアに海図を注文するほどです。
その他にも、利点は多々ありましたが、出資者を見つけるのが容易だった事が大きな理由になったかと!
アルド社の商標は錨にイルカが戯れているイラストです。
錨は正確さ、つまり誤植がないこと。
イルカは知恵と速さも示しているのでしょう。
アルド社最初の書物は「ギリシア詩集」です。
ラテン語の対訳つきなので、学生、知的エリートだけでなくヨーロッパ全域まで販路をひろげられました。
当時の全ヨーロッパの書物の刊行が1821点で、そのうち447点がヴェネツィアでの出版でした。
第2位のパリでも181点です。
印刷技術の発明国のドイツを引き離した一大出版国になりました。
出版人アルドの成功の要因はこれだけでなく”文庫本”の発明がありました。
紙を8回折るところから「八つ折り」(オッターヴォ)と呼ばれました。
ポケットに入る本として、運びやすさだけでなく、安価というメリットも兼ね備えていました。
ただし、文庫化には一つの壁がありました。
文字数の縮小化です。
当時の正式な文字は、ゴシック書体で、装飾性は優れていますが、縮小すると殆ど読めない文字でした。
そこでアルドは、今でもイタリックと呼ばれる書体を発明しました。
イタリックの採用で価格も8分の1まで下げることに成功しています。
ここで、特許の申請をしていますが、独占して価格をつり上げないところが当時のヴェネツィア的です。
アルドは、よほど本を愛していたのでしょう。
出版案内のカタログも印刷して郵送した最初の人でしたが、宣伝重視だけではありませんでした。
今でもネットでしか見れませんが関連ある書物は、他社の出版書まで親切にも列記していました。
これだけのサービスを受ければ、錨とイルカのマークを覚えるのも当然でしょう。
当代きっての売れっ子作家エラスムスも自ら売り込んできました。
アルドは、彼の作品だけでなく校正係としてもこき使ったようですが(笑)
アルド・マヌァツィオは66歳で死にますが、教会に運ばれる遺体の周囲を飾ったのは花ではなく、彼が出版した数多くの書物でした。
それでは、今日も読書とスポーツを楽しもう!