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2017年1月12日

2017.01.12    映画と歴史

ライター
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スポーツの楽しさをお伝えするATHLEADブログ。

 

 

 

 

こんにちは、シェフの阿川です。

 

 

 
ぐうたらな寝正月を過ごしました。笑
ボケっと頭を使わずに過ごそうと借りたDVDが映画「グラディエーター」でした。
2000年製作の古代ローマ帝国時代が舞台です。

 

 

 
新皇帝に命を狙われた将軍が、剣闘士となって家族の復讐の機会を狙いながら生きていくドラマを壮大なスケールで描いた作品で、アカデミー賞を獲っていたと思います。

 

 

 
古代からの地中海文明を多少知っている者が、この映画を観るとツッコミ処満載で、真実と作品との区別という事を考えさせられました。

 

 

 
一例ですが、シェイクスピアの作品は優れた名作ばかりですが、歴史的な実情から見るとあり得ない設定、展開が数多くあります。

 

 

 
「ベニスの商人」がまさにそうです。
当時のヴェネツィアであったら、借金を背負い苦しむアントーニオはヴェネツィア商人の面汚しであったでしょう!

 

 

 
航海ごとの保険もできたし、他の船に分散して運搬するのが常識でしたから!
リスクマネジメントの出来ない商人は政府からも行政指導が入るくらい徹底したリアリスト集団でした。

 

 

 
しかし、作品としての「ベニスの商人」は名作であり、現在でも広く読まれてます。
ただ、それを鵜呑みにして金貸シャイロックを現実のユダヤ商人に置き換えて、悪いイメージを植え付けてしまったことも否定は出来ないところが、難しく恐ろしい事でもあります。

 

 

 
この映画「グラディエーター」は、哲人皇帝と言われたマルクス・アウレリウスの息子、コモドゥスが皇帝不適格であるとみなします。
部下の将軍マキシムに後の帝国を託そうとしたところから物語が展開します。
それに気付いたコモドゥスが先手を打って父親を殺し、皇帝に就任します。

 

 

 
賢帝と言われ、人間にとって正しい生き方の指針を哲学に求めた程の人がなぜコモドゥスに後を託したのか?

 

 

 
実はマルクスにはこれ以外の選択肢がなかったのです。
黄金の世紀といわれた五賢帝時代の特色は、皇帝が最適の人材と判断した者を養子に迎え、後継者に指名する方式が継承されたところにあります。

 

 

 
実力主義に徹しましたが、それだけでは納得しないのが人情ですから、養子にして正統性を与えました。
ただ前の4人の皇帝には息子がいなかったのですが、マルクス・アウレリウスには実の息子がいたのです。

 

 

 
古今東西、後継者問題お家騒動ほど泥沼化すると厄介な問題はなく、これまでのローマでも何度か直面した問題でした。

 

 

 
その事実を知っていたからマルクスの選択は息子を後継者にするしかなかったのです。
もしくは暗殺!

 

 

 
実際、マルクスは生前からコモドゥスを共同皇帝にすることで、継承をスムーズにしようとしていて何の失点も悪評もなかったのです。

 

 

 
我々現代人は、古代の皇帝ならば何でも望むことが出来ると思っているかもしれませんが、ローマ帝国に関してはそうはいきませんでした。

 

 

 
新しい事をやりたければ、新しい法を成立させた後でなければ出来なく、ローマ市民と元老院の賛同を得なければ帝位継承も出来ませんでした。

 

 

 
公正を重んじ、法の尊重に努めたマルクス・アウレリウスが、元老院が承認し、コロッセオで市民達の歓迎を受けた息子コモドゥスの共同就任を勝手に変える事は出来なかったはずです!

 

 

 
コモドゥスにしてみれば、父マルクスを殺害する動機は全くなかった事になります。

 

 

 
こうなると映画が成り立たなくなってしまうのですが、映画はあくまでフィクション!
ただスタートからこの様にフィクション化してしまうと、後のストーリーもフィクションで続けて行かざるを得なくなります。

 

 

 
主人公の将軍マキシムスを皇帝が自分の天幕に招いて労う場面があります。
「望みはなにか?」
マキシムスは、「家族のもとに帰りたい」と答えます。

 

 

 
現代人の感覚に合わせて主人公の人間味を強調したかったのでしょうが、マルクスならばこの答えだけで皇帝不適格と断定したはずです!

 

 

 
皇帝は皆、激務による短命が多かったです。
マルクスほどストイックに公務を行なった者です。
一個軍団でも1万2千人いる軍隊の指揮官が一兵卒の様な発言をする事は許さなかったでしょう。

 

 

 
国家の要職を「名誉あるキャリア」と称して、無報酬で行うことを当然と考えていたのが当時のエリートでしたから!

 

 

 
映画では新皇帝の手に接吻を求めていますが、それが皇帝への忠誠の宣誓でした。
それを拒否するのは当然、反逆行為なので逮捕は免れないのです。

 

 

 
ただ家族まで惨殺したのは完全な越権行為で、剣闘士になってまで復讐を誓う理由にはなります。

 

 

 
映画のラストでのコモドゥス殺害に成功した後のシーンが、私にはハリウッド的な偽善が見えてしまって、折角の映画を台無しにしてしまったと思ってます。

 

 

 
中庸の道を理想とし模索するヨーロッパでは、この様に描かないでしょう。

 

 

 
それはマキシムスの命が尽きる直前に根回ししていた、ある元老院議員に剣を差し出し「全ての権力を元老院にお返しします」というシーンです。

 

 

 
現代においても議会制民主主義を押し付けた為に新たな紛争の火種を植え付けている米国です。

 

 

 
実際の古代ローマでは元老院主導の共和制が完全な機能不全に陥ってしまい、特権階級の不正汚職、経済格差と組織システムの動脈硬化になってました。

 

 

 
国家の存続も危ぶまれた時期を乗り越え、選ばれた皇帝の統治する帝政を作りあげました。

 

 

 
「パクスロマーナ」(ローマによる平和)という時代も帝政時代の頃です。

 

 

 
帝政、帝国という言葉が悪いイメージを植え付けてますね。
帝国主義という概念と言葉が生まれたのは19世紀からであって、2千年前の文明に当てはめてしまう事が誤解の原因でしょう。

 

 

 
当時のローマ支配圏内では武装せず辺境の地まで旅する事が可能で、格差社会にならない様に気を配っていた政策が多々見られます。

 

 

 
安全保障と経済!
この現代でも主題の問題を最もスムーズに行えるのが帝政だったという結果でした。

 

 

 
文学や映画はフィクションであると分かっていても、そのイメージが植え付けられてしまうのが大衆で人間でしょう。

 

 

 
政治思想家のマキャベリも「目的達成の為には手段を選ばず」というイメージが付きまとっています。
彼の意図では、「長期的にみてその行為が有効であるのならば」という説明があるのですが。

 

 

 
フィクションもイメージとして繰り返してしまうと事実と思い込んでしまう危険があると考えさせられました。

 

 

 
メニュー名を考える時にイメージが沸く様なキャッチコピーを考えますが、フィクションにならない様にしないと、です。